2008年08月21日(木) 00:08
先日、 雲池垢斎殿と雑談をしていたら韓国イージス艦(具体的には世宗大王のこと)話がでて、「波浪が4mを超えたら出航できない艦船が冬の日本海で任務を遂行できるわけがない。」とか「武装し過ぎて、その内ひっくり返るるんじゃないか。」とかで大いに盛り上がりました。(たぶん、大半は柴犬が言ったんだろうけど、酔っていたせいもあって良く覚えていない。 笑い。 因みに 雲池垢斎殿は自衛艦も建造している大手造船会社のOBです。)
ま、そのときに旧日本海軍でも軍艦の転覆事故があった事を思い出し。ちゃんと調べる気になりました。で、今日はその報告です。
1.『栄光なき天才たち』
そもそも、この「友鶴転覆事件」という日本海軍史上まれにみる海難事故をなぜ柴犬が知っていたかと言うとそれは『栄光なき天才たち』という漫画によるものです。
『栄光なき天才たち』単行本第6巻に平賀譲(天才的な軍艦設計者。戦艦大和の設計にも携わった。通称「造船の神様」)という一章があり、それを覚えていたんですね。
この、平賀譲という人物は興味深いことに東京大学医学部に脳が保存されているという、日本では数少ない人物の一人です。(と言うか、ほとんどいない。)
脳の保存と言えばアインシュタインが有名ですが、後は数学者のガウス。日本では夏目漱石などが有名でしょうか。(そんなに有名でもないか。)
2.「日本軍を震撼させた友鶴転覆」
友鶴の転覆。それは昭和9年(1934年)3月12日に起こりました。水雷艇友鶴は夜間教練を終え、佐世保に向け北上の途中、荒天の風波の衝撃を受け大傾斜が起きた際に、これに対抗する復元力が不足し、転覆したのです。殉職者は艇長以下100名でした。 友鶴は千鳥型の1隻で、重武装としたために異常に重心が高く、傾斜時の復元力が欠如し、いわゆるトップヘビーであったようです。艦の進路の斜め後方より追波を受け、波の周期と艦の固有振動周期が同調して大きく揺れ、復元力不足で転覆したといわれています。
3.なぜ、友鶴はトップヘビーとなったか?
いまでは、艦艇の武装は10〜15%が一般的となっているようですが、当時はそうも言っていられない事情がありました。
それは、ロンドン軍縮条約で、これにより日本は米国や英国に比べ戦艦やその他艦艇の比率が少なく押さえられた。
で、どうしたかというと少ない艦艇で多くの艦艇に立ち向かう為に過大といえる武装を艦艇に課した訳です。 それが結えに600トン以下の水雷艇にすぎない友鶴に基準排水量1000トン級の駆逐艦の武装を与えた訳です。
4.友鶴の分析
友鶴転覆の主な原因がトップヘビーにあった事は既に述べましたが、その度合いはどれほどのものだったのでしょうか?
友鶴の水雷及び電気兵器の重量は167トンに達し、排水量の24パーセントに近いかった。これを当時以前の駆逐艦に比較すると睦月型では178トン(排水量比10パーセント)であって、排水量が2.5倍になる一等駆逐艦と同じ重量の兵装であった。当時画期的な重武装駆逐艦たる特型(吹雪型)においてすら兵装重量302トン(排水量比13.7パーセント)にすぎなかった。
現在の軍艦の搭載兵器/排水量が先に述べた様に10〜15%と言われているなかで、70年前の艦艇が24%だったというのはやはり頭でっかちだったと追わざる得ないでしょうね。
5.事件後
友鶴の転覆を契機として、日本海軍の艦艇が全面的にその復元性能に再検討が加えられた。一艦ごとにその復元性能の目標によって所要の改造設計が実施され、昭和9年春から翌10年にわたりすべての改造工事が行われた。また、建造中の艦艇は根本的にその設計の再検討が行われた。
その後、日本の艦艇は現在に至るまで同様の事故を起こしていない。
6.後日談
太平洋戦争中、昭和19年(1944年)10月23日〜26日のレイテ湾海戦(フィリピン沖海戦)においてレイテ攻防戦に従事していた米海軍第3艦隊は風速55メートルという猛烈な暴風雨に遭遇した。
燃料タンクがほぼ空だった駆逐艦ハル、モナガンおよびスペンスは安定性を失っい、3隻の駆逐艦は物すごい嵐の最高潮時に70度以上の傾斜を繰返し、そのまま転覆して沈んでしまった。
ほかに軽航空母艦5隻、護衛航空母艦3隻、重巡洋艦2隻、駆逐艦8隻が大破し、他に9隻が損傷を受けた。海中に投棄されたり、艦外に吹き飛ばされたり、あるいは衝突し、または焼失した艦上機は183機にのぼった。ほとんど800名の将兵が艦と運命をともにした。
レイテ沖海戦で壊滅的な被害を負った旧日本海軍の仇討ちを季節外れの台風が行ったと思うのは柴犬だけかな?
7.後日談2
映画「パーフェクト・ストリーム」は実話を元に製作されたことは有名であるが、この実際の暴風雨に遭遇した日本の遠洋漁船は多くの漁船などが遭難する中、自力で生還した。(原作の日本語版には、この船の乗組員へのインタビューが載っているそうです。)
テレビで当時の船員は、「日本の漁船は嵐では絶対に沈まないと確信していました。」と述べていました。
これも、友鶴の犠牲が生かされたことだと柴犬は思ってます。 ハイ。
ま、そのときに旧日本海軍でも軍艦の転覆事故があった事を思い出し。ちゃんと調べる気になりました。で、今日はその報告です。
1.『栄光なき天才たち』
そもそも、この「友鶴転覆事件」という日本海軍史上まれにみる海難事故をなぜ柴犬が知っていたかと言うとそれは『栄光なき天才たち』という漫画によるものです。
『栄光なき天才たち』単行本第6巻に平賀譲(天才的な軍艦設計者。戦艦大和の設計にも携わった。通称「造船の神様」)という一章があり、それを覚えていたんですね。
この、平賀譲という人物は興味深いことに東京大学医学部に脳が保存されているという、日本では数少ない人物の一人です。(と言うか、ほとんどいない。)
脳の保存と言えばアインシュタインが有名ですが、後は数学者のガウス。日本では夏目漱石などが有名でしょうか。(そんなに有名でもないか。)
2.「日本軍を震撼させた友鶴転覆」
友鶴の転覆。それは昭和9年(1934年)3月12日に起こりました。水雷艇友鶴は夜間教練を終え、佐世保に向け北上の途中、荒天の風波の衝撃を受け大傾斜が起きた際に、これに対抗する復元力が不足し、転覆したのです。殉職者は艇長以下100名でした。 友鶴は千鳥型の1隻で、重武装としたために異常に重心が高く、傾斜時の復元力が欠如し、いわゆるトップヘビーであったようです。艦の進路の斜め後方より追波を受け、波の周期と艦の固有振動周期が同調して大きく揺れ、復元力不足で転覆したといわれています。
3.なぜ、友鶴はトップヘビーとなったか?
いまでは、艦艇の武装は10〜15%が一般的となっているようですが、当時はそうも言っていられない事情がありました。
それは、ロンドン軍縮条約で、これにより日本は米国や英国に比べ戦艦やその他艦艇の比率が少なく押さえられた。
で、どうしたかというと少ない艦艇で多くの艦艇に立ち向かう為に過大といえる武装を艦艇に課した訳です。 それが結えに600トン以下の水雷艇にすぎない友鶴に基準排水量1000トン級の駆逐艦の武装を与えた訳です。
4.友鶴の分析
友鶴転覆の主な原因がトップヘビーにあった事は既に述べましたが、その度合いはどれほどのものだったのでしょうか?
友鶴の水雷及び電気兵器の重量は167トンに達し、排水量の24パーセントに近いかった。これを当時以前の駆逐艦に比較すると睦月型では178トン(排水量比10パーセント)であって、排水量が2.5倍になる一等駆逐艦と同じ重量の兵装であった。当時画期的な重武装駆逐艦たる特型(吹雪型)においてすら兵装重量302トン(排水量比13.7パーセント)にすぎなかった。
現在の軍艦の搭載兵器/排水量が先に述べた様に10〜15%と言われているなかで、70年前の艦艇が24%だったというのはやはり頭でっかちだったと追わざる得ないでしょうね。
5.事件後
友鶴の転覆を契機として、日本海軍の艦艇が全面的にその復元性能に再検討が加えられた。一艦ごとにその復元性能の目標によって所要の改造設計が実施され、昭和9年春から翌10年にわたりすべての改造工事が行われた。また、建造中の艦艇は根本的にその設計の再検討が行われた。
その後、日本の艦艇は現在に至るまで同様の事故を起こしていない。
6.後日談
太平洋戦争中、昭和19年(1944年)10月23日〜26日のレイテ湾海戦(フィリピン沖海戦)においてレイテ攻防戦に従事していた米海軍第3艦隊は風速55メートルという猛烈な暴風雨に遭遇した。
燃料タンクがほぼ空だった駆逐艦ハル、モナガンおよびスペンスは安定性を失っい、3隻の駆逐艦は物すごい嵐の最高潮時に70度以上の傾斜を繰返し、そのまま転覆して沈んでしまった。
ほかに軽航空母艦5隻、護衛航空母艦3隻、重巡洋艦2隻、駆逐艦8隻が大破し、他に9隻が損傷を受けた。海中に投棄されたり、艦外に吹き飛ばされたり、あるいは衝突し、または焼失した艦上機は183機にのぼった。ほとんど800名の将兵が艦と運命をともにした。
レイテ沖海戦で壊滅的な被害を負った旧日本海軍の仇討ちを季節外れの台風が行ったと思うのは柴犬だけかな?
7.後日談2
映画「パーフェクト・ストリーム」は実話を元に製作されたことは有名であるが、この実際の暴風雨に遭遇した日本の遠洋漁船は多くの漁船などが遭難する中、自力で生還した。(原作の日本語版には、この船の乗組員へのインタビューが載っているそうです。)
テレビで当時の船員は、「日本の漁船は嵐では絶対に沈まないと確信していました。」と述べていました。
これも、友鶴の犠牲が生かされたことだと柴犬は思ってます。 ハイ。
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