2008年08月18日(月) 20:04
脱亜論と言うと、中国や半島人では「民族差別に基づいた偏見に満ちた・・なんたらかんたら。」と、とにかく彼らにとってみれば唾棄すべきものらしい。
ところが残念な事に日本人の中にも偏見から生まれた思っている人がいるだな。 これが。 そこで、脱亜論が生まれるに至った経緯を簡単に記してみたい。
1.脱亜論とは 脱亜論(だつあろん)とは、明治18年(1885年)3月16日、「時事新報」紙上に掲載された社説を指す。
「脱亜論」は福澤諭吉が執筆したとされているが、原文は無署名の社説である。昭和8年(1933年)に慶應義塾編『続福澤全集〈第2巻〉』(岩波書店)に「脱亜論」が収録されたため、「脱亜論」は福澤が執筆した社説と考えられるようになった。
概要 以下、「脱亜論」の原文[3]からの引用を含む。
第1段落より
まず、執筆者は交通手段の発達による西洋文明の伝播を「文明は猶麻疹の流行の如し」と表現する。それに対し、これを防ぐのではなく「其蔓延を助け、国民をして早く其気風に浴せしむる」ことこそが重要であると唱える。 その点において日本は文明化を受け入れ、「独リ日本の旧套を脱したるのみならず、亜細亜全洲の中に在て新に一機軸を出し」、アジア的価値観から抜け出した、つまり脱亜を果たした唯一の国だと評する。
第2段落より
その上で、「不幸なるは近隣に国あり」として、支那(清)と朝鮮(李氏朝鮮)を挙げ、両者が近代化を拒否して儒教など旧態依然とした体制にのみ汲々とする点を指摘し「今の文明東漸の風潮に際し、迚も其独立を維持するの道ある可らず」と論じる。 そして、甲申政変を念頭に置きつつ、両国に志士が出て明治維新のように政治体制を変革できればよいが、そうでなければ両国は「今より数年を出でずして亡国と為り」、西洋諸国に分割されてしまうだろう、と予測する。 その上で、甲申政変における清軍の市民への乱暴狼藉を暗に挙げ、このままでは西洋人は清・朝鮮両国と日本を同一視してしまうだろう、それは「我日本国の一大不幸」であると危惧する。 そして、「悪友を親しむ者は共に悪名を免かる可らず。我は心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」といい、両国とは縁を切り、日本一国で近代化することが望ましいと結んでいる。
2.脱亜論が生まれた背景
諭吉は朝鮮の近代化を切望した。 故に当時の朝鮮青年指導者金玉均などと親密な関係を結んでいて物心両面にわたり協力を惜しまなかった。 1868年に慶應義塾を創立すると、朝鮮から留学生を積極的に受け入れ、朝鮮の近代化に力をいれた。
そして、ままでは朝鮮の近代化はおぼつかないと感じた金玉均・朴泳孝・徐載弼らの開化派(独立党)人士らは、朝鮮の近代化をはかって甲申政変(こうしんせいへん1884年12月)を引き起こした。
しかし、袁世凱率いる清軍が王宮を守る日本軍に攻め寄りクーデター派は敗退。結局日本軍も撤退し、親清派の守旧派が臨時政権を樹立。開化派による新政権はわずか3日で崩壊し、計画の中心人物だった金玉均らは日本へ亡命することとなった。残った開化派人士、及び亡命者も含めた彼らの家族らも概ね三親等までの近親者が残忍な方法で処刑された。
金玉均ら開化派を支え続けてきた福澤諭吉らであったが、この事件で朝鮮・中国に対していわば完全にサジを投げてしまう。とりわけ開化派人士や、幼児等も含むその近親者への残酷な処刑は福澤らをして激しい失望感を呼び起こした。
ここにおいて福澤は、天津条約締結の前月には自身が主宰する時事新報の紙面において、いわゆる脱亜論を発表するに至ったわけである。
3.金玉均(キム・オッキュン)のその後
期待を込めて援助した朝鮮に結果的に最悪の形で裏切られたことが、諭吉に脱亜論を書かせたと言うことが理解できたでしょうか。 「脱亜論が人種的な偏見からでた。」と言う方がよほど偏見に満ちてます。
では、諭吉の希望であった金玉均はどうなったのでしょうか?
クーデター後に日本に亡命していた金玉均は、東京や札幌、小笠原諸島などを転々とした後、上海に渡った。1894年3月28日、上海で閔妃の刺客洪鐘宇にピストルで暗殺された。遺体は清国軍艦咸靖号で本国朝鮮に運ばれ凌遅刑に処された。その遺体はバラバラにされ、胴体は川に捨てられ、首は京畿道竹山、片手及片足は慶尚道、他の手足は咸鏡道で曝された・・・。
注)凌遅刑とは「生身の人間の肉を少しずつ切り落とし、長時間苦痛を与えたうえで死に至らす刑。」
まあ、今も昔も半島は酷いです。
ところが残念な事に日本人の中にも偏見から生まれた思っている人がいるだな。 これが。 そこで、脱亜論が生まれるに至った経緯を簡単に記してみたい。
1.脱亜論とは 脱亜論(だつあろん)とは、明治18年(1885年)3月16日、「時事新報」紙上に掲載された社説を指す。
「脱亜論」は福澤諭吉が執筆したとされているが、原文は無署名の社説である。昭和8年(1933年)に慶應義塾編『続福澤全集〈第2巻〉』(岩波書店)に「脱亜論」が収録されたため、「脱亜論」は福澤が執筆した社説と考えられるようになった。
概要 以下、「脱亜論」の原文[3]からの引用を含む。
第1段落より
まず、執筆者は交通手段の発達による西洋文明の伝播を「文明は猶麻疹の流行の如し」と表現する。それに対し、これを防ぐのではなく「其蔓延を助け、国民をして早く其気風に浴せしむる」ことこそが重要であると唱える。 その点において日本は文明化を受け入れ、「独リ日本の旧套を脱したるのみならず、亜細亜全洲の中に在て新に一機軸を出し」、アジア的価値観から抜け出した、つまり脱亜を果たした唯一の国だと評する。
第2段落より
その上で、「不幸なるは近隣に国あり」として、支那(清)と朝鮮(李氏朝鮮)を挙げ、両者が近代化を拒否して儒教など旧態依然とした体制にのみ汲々とする点を指摘し「今の文明東漸の風潮に際し、迚も其独立を維持するの道ある可らず」と論じる。 そして、甲申政変を念頭に置きつつ、両国に志士が出て明治維新のように政治体制を変革できればよいが、そうでなければ両国は「今より数年を出でずして亡国と為り」、西洋諸国に分割されてしまうだろう、と予測する。 その上で、甲申政変における清軍の市民への乱暴狼藉を暗に挙げ、このままでは西洋人は清・朝鮮両国と日本を同一視してしまうだろう、それは「我日本国の一大不幸」であると危惧する。 そして、「悪友を親しむ者は共に悪名を免かる可らず。我は心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」といい、両国とは縁を切り、日本一国で近代化することが望ましいと結んでいる。
2.脱亜論が生まれた背景
諭吉は朝鮮の近代化を切望した。 故に当時の朝鮮青年指導者金玉均などと親密な関係を結んでいて物心両面にわたり協力を惜しまなかった。 1868年に慶應義塾を創立すると、朝鮮から留学生を積極的に受け入れ、朝鮮の近代化に力をいれた。
そして、ままでは朝鮮の近代化はおぼつかないと感じた金玉均・朴泳孝・徐載弼らの開化派(独立党)人士らは、朝鮮の近代化をはかって甲申政変(こうしんせいへん1884年12月)を引き起こした。
しかし、袁世凱率いる清軍が王宮を守る日本軍に攻め寄りクーデター派は敗退。結局日本軍も撤退し、親清派の守旧派が臨時政権を樹立。開化派による新政権はわずか3日で崩壊し、計画の中心人物だった金玉均らは日本へ亡命することとなった。残った開化派人士、及び亡命者も含めた彼らの家族らも概ね三親等までの近親者が残忍な方法で処刑された。
金玉均ら開化派を支え続けてきた福澤諭吉らであったが、この事件で朝鮮・中国に対していわば完全にサジを投げてしまう。とりわけ開化派人士や、幼児等も含むその近親者への残酷な処刑は福澤らをして激しい失望感を呼び起こした。
ここにおいて福澤は、天津条約締結の前月には自身が主宰する時事新報の紙面において、いわゆる脱亜論を発表するに至ったわけである。
3.金玉均(キム・オッキュン)のその後
期待を込めて援助した朝鮮に結果的に最悪の形で裏切られたことが、諭吉に脱亜論を書かせたと言うことが理解できたでしょうか。 「脱亜論が人種的な偏見からでた。」と言う方がよほど偏見に満ちてます。
では、諭吉の希望であった金玉均はどうなったのでしょうか?
クーデター後に日本に亡命していた金玉均は、東京や札幌、小笠原諸島などを転々とした後、上海に渡った。1894年3月28日、上海で閔妃の刺客洪鐘宇にピストルで暗殺された。遺体は清国軍艦咸靖号で本国朝鮮に運ばれ凌遅刑に処された。その遺体はバラバラにされ、胴体は川に捨てられ、首は京畿道竹山、片手及片足は慶尚道、他の手足は咸鏡道で曝された・・・。
注)凌遅刑とは「生身の人間の肉を少しずつ切り落とし、長時間苦痛を与えたうえで死に至らす刑。」
まあ、今も昔も半島は酷いです。
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