2008年07月01日(火) 15:32
子供の頃には白土三平の「カムイ伝」が愛読書だった。カムイ伝はストーリー性が希薄な当時のマンガ界にあって、骨太のストーリーを持った革新的なマンガだった。 内容は極めてマルクス思想の強いもので、発刊当時、唯物史観者(マルクス主義史観者)からは「江戸時代の文献を読む前にカムイ伝を読破すべし」とまで言われ、唯物史観の教科書視されていた。 (が、当時小学生の柴犬にそんなこと分かるわけ無い。 あは。)
同じ頃、某国営放送局で「天下御免」と言う平賀源内を主人公とした番組(平均視聴率30%という化け物番組)で伊勢参り(お蔭参り)の話があったとき、そこで柴犬は考えた。
「カムイ伝」の描く江戸時代とおちゃらけてはいたが「天下御免」の江戸時代とどっちが史実に近いのだろうか? というのは、「カムイ伝」では重い年貢の取り立てや役人の圧政に苦しめられた百姓が年がら年中一揆をやっているからだ。
子供なりに思ったのは、狂喜乱舞して御伊勢に参る百姓と一揆に集まる百姓。 同じ江戸時代にこんなにギャップが有ったのだろうか? それを再び思い出すのは最近のことだったのだが・・・。
<日本人口の推移> http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/1150.html

興味有って日本の人口推移を調べていて気づいたのだが、江戸の始まりから江戸時代のほぼ真ん中、八代将軍吉宗の行った享保の改革までの130年間に日本の人口は3倍近くに増えているじゃないですか。8〜9割りが百姓だったこの時代に武士や商人が増えただけではこの増加はありえず、ほとんどは百姓が増えたと言える訳です。
そうなると、六公四民とか七公三民とかいわれて激しい年貢の取り立てで「喰うや喰わずや」暮らしていたという百姓像はかなり疑わしく思われ、さらに調べると「百姓一揆の実像」と言う興味深い資料を見つけました。
<百姓一揆の実像>http://www.h4.dion.ne.jp/~t-fujita/memo/4/4-jibun.html
社会科の先生は,このようなグラフを見たことあると思うんですよ。江戸時代の百姓一揆の発生件数のグラフです。これは打ちこわしですね。棒グラフが打ちこわし。折れ線グラフが百姓一揆の件数ですね。このあたりに,飢饉の名前があります。三大改革なんかもこのあたりにある。これは教科書に必ず載っています。社会科の教員はこういう授業をするんですね。「見てみなさい。飢饉の後には百姓一揆が起こっているだろう。これだけ,江戸時代の農民はきびしい支配を受けていたし,生活も苦しかったから,飢饉が起きた時に耐えられないから一揆を起こしたんだぞ。」あるいは,「グラフを見てみろ。百姓一揆がこんなにも起こっているのだぞ。だから江戸時代の農民はきびしい支配を受けて,がまんしてがまんして,でもがまんできなくなって立ち上がったんだぞ。」
一番多く百姓一揆が起こったところの件数がわかりますか。社会科の先生知っておられますか。必ず教科書に出てますよ。でもこの件数を考えもしないで授業をしているんでしょうね。一度,教科書を開けて見てみてください。だいたい80から多くて100ですね。平均すると20から30くらいですね。そんな多くないですよ。教科書の百姓一揆のグラフは,青木虹二さんという方の『百姓一揆の研究』という本をベースに作られたものです。
青木さんは全国各地で起こった百姓一揆を研究されました。この本を読むと江戸時代には全部で3200件ぐらい百姓一揆が起きたと書いてある。これはすごい数だということになる。でも,この3200というのは分数の分子なんです。つまり,江戸時代は約260年間続いているのです。日本全国にいくらの藩があったでしょうか。約300の藩があったと言われています。計算してみてください。一年間で一つの藩でどれだけの一揆がおこるでしょうか。そんなに一揆は起きていないんですよ。
それから,一揆というとムシロ旗を上げて,そして竹槍を持って行くのが一揆だと,これもわれわれのイメージです。実態はどうでしょうか。ほとんどが「逃散」といって逃げ出すか,あるいは「強訴」といって嘆願書を持って役人のところに抗議に行く。しかも,この嘆願書のほとんどは確かに年貢を下げてくれという項目は書いているのですが,これは常套手段ですね。一番一揆の原因となったものは何か。それはよく時代劇に出てくるような悪代官がたくさんいたんです。その悪代官を辞めさせてくれという,これが一揆の目的の一番大きいものです。だから今も昔も変わらないですね。今も昔も庶民は政治家に苦しんでいるです。
では,具体的に百姓一揆の件数のなかで,武力衝突の一揆の件数はいくらだったでしょうか。それは3200件のうちの78件です。この78件が義民一揆とか言われているのです。それを考えた時に江戸時代の農民や百姓がそんなに生活が苦しくて幕府や藩,役人に反発していたのでしょうか。同じようなグラフが明治になって出てきます。
社会科の先生はご存知だと思いますが,明治になって農民の新政府への反発ということで暴動おこります。それがグラフになって教科書にも載っています。新政反対一揆ですね。明治になってわずか25年から30年の間にものすごい数の農民の暴動がおこっているんです。それこそ一年間に100から150くらいの暴動が全国各地で広範囲におこっています。どうして江戸時代に百姓一揆がそんなにも起こらないで,明治になってこんなに多くの暴動が起こるんでしょうか。しかも,明治になって起こった暴動の要求項目の第一番目は何でしょうか。
それは江戸時代に戻せです。筑前竹槍一揆の要求項目の中にも以前の殿様に戻してほしいという項目が入っています。われわれは特定の歴史観によって一面的に解釈され固定化された歴史概念にとらわれてきたのではないでしょうか。その歴史概念の先に被差別民の存在があったのではないでしょうか。一面的な歴史概念から史実を解釈することの問題性こそを問わなければなりません。
同様のことが,江戸時代の農民の年貢率にもあります。貧農史観からの解釈です。年貢率が五公五民から六公四民になり,そして七公三民になっていく,教科書にそのように書かれています。でも,私はいまだかつて今日から五公五民を六公四民にしますという法令が書かれている古文書を見たことがありません。みなさんは見たことがありますか。教科書に書いてあるだけですよね。
先ほど「慶安の御触書」は存在しないと私は言いました。やがては学説となって教科書から「慶安の御触書」は消えていくと思っています。同じように五公五民や六公四民も実態と違うということで変わっていくと思います。江戸時代の農民の負担はどのくらいだったのでしょうか。だいたい3割程度だと考えています。ですから,農民の生活は従来言われてきたほどには苦しくはなかったのではないでしょうか。そして,もうひとつ朝から晩までほんとうに農民は働いていたのでしょうか。
江戸時代の農民の生活の様子を見ますと,だいたい一年間に農閑期として40日から80日くらいの自由な休みの日がありました。その休みの日には何をやっているのでしょうか。村祭りの準備をしたり,村芝居の準備をしたり,伊勢参りに出かけたりしているわけでしょう。
☆どうでしょうか? にわかには信じられない人が多いとは思いますが。 しかし、歴史の教科書とはそうした物で、再現性があった検証可能な物理・化学などの教科書とは信頼性においてそもそも異なるということ認識しておいた方が良いです。
柴犬も意外だったのは、「五公五民を六公四民とか書かれた古文書はない。」という文でしょうか。 それじゃ何を元に今まで書いていたんだということになりますが、このあたりはもう少し調べてみたいと思っています。
江戸時代に既に8割という識字率を誇った日本には、侍に限らず商人や百姓までが様々な日記や記録書を残しています。 これらの文献の研究も最近は進んでいるので将来はもっと詳細に歴史の研究が進んで行く事でしょう。
その時に、「あれは迷信だった。」といわれる物事は少なくないと思いますよ。ハイ。
歴史には未だ伝説や迷信が多いですから。
同じ頃、某国営放送局で「天下御免」と言う平賀源内を主人公とした番組(平均視聴率30%という化け物番組)で伊勢参り(お蔭参り)の話があったとき、そこで柴犬は考えた。
「カムイ伝」の描く江戸時代とおちゃらけてはいたが「天下御免」の江戸時代とどっちが史実に近いのだろうか? というのは、「カムイ伝」では重い年貢の取り立てや役人の圧政に苦しめられた百姓が年がら年中一揆をやっているからだ。
子供なりに思ったのは、狂喜乱舞して御伊勢に参る百姓と一揆に集まる百姓。 同じ江戸時代にこんなにギャップが有ったのだろうか? それを再び思い出すのは最近のことだったのだが・・・。
<日本人口の推移> http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/1150.html

興味有って日本の人口推移を調べていて気づいたのだが、江戸の始まりから江戸時代のほぼ真ん中、八代将軍吉宗の行った享保の改革までの130年間に日本の人口は3倍近くに増えているじゃないですか。8〜9割りが百姓だったこの時代に武士や商人が増えただけではこの増加はありえず、ほとんどは百姓が増えたと言える訳です。
そうなると、六公四民とか七公三民とかいわれて激しい年貢の取り立てで「喰うや喰わずや」暮らしていたという百姓像はかなり疑わしく思われ、さらに調べると「百姓一揆の実像」と言う興味深い資料を見つけました。
<百姓一揆の実像>http://www.h4.dion.ne.jp/~t-fujita/memo/4/4-jibun.html
社会科の先生は,このようなグラフを見たことあると思うんですよ。江戸時代の百姓一揆の発生件数のグラフです。これは打ちこわしですね。棒グラフが打ちこわし。折れ線グラフが百姓一揆の件数ですね。このあたりに,飢饉の名前があります。三大改革なんかもこのあたりにある。これは教科書に必ず載っています。社会科の教員はこういう授業をするんですね。「見てみなさい。飢饉の後には百姓一揆が起こっているだろう。これだけ,江戸時代の農民はきびしい支配を受けていたし,生活も苦しかったから,飢饉が起きた時に耐えられないから一揆を起こしたんだぞ。」あるいは,「グラフを見てみろ。百姓一揆がこんなにも起こっているのだぞ。だから江戸時代の農民はきびしい支配を受けて,がまんしてがまんして,でもがまんできなくなって立ち上がったんだぞ。」
一番多く百姓一揆が起こったところの件数がわかりますか。社会科の先生知っておられますか。必ず教科書に出てますよ。でもこの件数を考えもしないで授業をしているんでしょうね。一度,教科書を開けて見てみてください。だいたい80から多くて100ですね。平均すると20から30くらいですね。そんな多くないですよ。教科書の百姓一揆のグラフは,青木虹二さんという方の『百姓一揆の研究』という本をベースに作られたものです。
青木さんは全国各地で起こった百姓一揆を研究されました。この本を読むと江戸時代には全部で3200件ぐらい百姓一揆が起きたと書いてある。これはすごい数だということになる。でも,この3200というのは分数の分子なんです。つまり,江戸時代は約260年間続いているのです。日本全国にいくらの藩があったでしょうか。約300の藩があったと言われています。計算してみてください。一年間で一つの藩でどれだけの一揆がおこるでしょうか。そんなに一揆は起きていないんですよ。
それから,一揆というとムシロ旗を上げて,そして竹槍を持って行くのが一揆だと,これもわれわれのイメージです。実態はどうでしょうか。ほとんどが「逃散」といって逃げ出すか,あるいは「強訴」といって嘆願書を持って役人のところに抗議に行く。しかも,この嘆願書のほとんどは確かに年貢を下げてくれという項目は書いているのですが,これは常套手段ですね。一番一揆の原因となったものは何か。それはよく時代劇に出てくるような悪代官がたくさんいたんです。その悪代官を辞めさせてくれという,これが一揆の目的の一番大きいものです。だから今も昔も変わらないですね。今も昔も庶民は政治家に苦しんでいるです。
では,具体的に百姓一揆の件数のなかで,武力衝突の一揆の件数はいくらだったでしょうか。それは3200件のうちの78件です。この78件が義民一揆とか言われているのです。それを考えた時に江戸時代の農民や百姓がそんなに生活が苦しくて幕府や藩,役人に反発していたのでしょうか。同じようなグラフが明治になって出てきます。
社会科の先生はご存知だと思いますが,明治になって農民の新政府への反発ということで暴動おこります。それがグラフになって教科書にも載っています。新政反対一揆ですね。明治になってわずか25年から30年の間にものすごい数の農民の暴動がおこっているんです。それこそ一年間に100から150くらいの暴動が全国各地で広範囲におこっています。どうして江戸時代に百姓一揆がそんなにも起こらないで,明治になってこんなに多くの暴動が起こるんでしょうか。しかも,明治になって起こった暴動の要求項目の第一番目は何でしょうか。
それは江戸時代に戻せです。筑前竹槍一揆の要求項目の中にも以前の殿様に戻してほしいという項目が入っています。われわれは特定の歴史観によって一面的に解釈され固定化された歴史概念にとらわれてきたのではないでしょうか。その歴史概念の先に被差別民の存在があったのではないでしょうか。一面的な歴史概念から史実を解釈することの問題性こそを問わなければなりません。
同様のことが,江戸時代の農民の年貢率にもあります。貧農史観からの解釈です。年貢率が五公五民から六公四民になり,そして七公三民になっていく,教科書にそのように書かれています。でも,私はいまだかつて今日から五公五民を六公四民にしますという法令が書かれている古文書を見たことがありません。みなさんは見たことがありますか。教科書に書いてあるだけですよね。
先ほど「慶安の御触書」は存在しないと私は言いました。やがては学説となって教科書から「慶安の御触書」は消えていくと思っています。同じように五公五民や六公四民も実態と違うということで変わっていくと思います。江戸時代の農民の負担はどのくらいだったのでしょうか。だいたい3割程度だと考えています。ですから,農民の生活は従来言われてきたほどには苦しくはなかったのではないでしょうか。そして,もうひとつ朝から晩までほんとうに農民は働いていたのでしょうか。
江戸時代の農民の生活の様子を見ますと,だいたい一年間に農閑期として40日から80日くらいの自由な休みの日がありました。その休みの日には何をやっているのでしょうか。村祭りの準備をしたり,村芝居の準備をしたり,伊勢参りに出かけたりしているわけでしょう。
☆どうでしょうか? にわかには信じられない人が多いとは思いますが。 しかし、歴史の教科書とはそうした物で、再現性があった検証可能な物理・化学などの教科書とは信頼性においてそもそも異なるということ認識しておいた方が良いです。
柴犬も意外だったのは、「五公五民を六公四民とか書かれた古文書はない。」という文でしょうか。 それじゃ何を元に今まで書いていたんだということになりますが、このあたりはもう少し調べてみたいと思っています。
江戸時代に既に8割という識字率を誇った日本には、侍に限らず商人や百姓までが様々な日記や記録書を残しています。 これらの文献の研究も最近は進んでいるので将来はもっと詳細に歴史の研究が進んで行く事でしょう。
その時に、「あれは迷信だった。」といわれる物事は少なくないと思いますよ。ハイ。
歴史には未だ伝説や迷信が多いですから。
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