2007年09月13日(木) 20:31
ワイダ監督が新作映画「カチン」発表、旧ソ連の虐殺題材 日経より
【ウィーン=桜庭薫】映画監督アンジェイ・ワイダ氏はワルシャワで12日、メディア向け上映会で最新作「カチン」を発表した。第二次大戦時ソ連がポーランド将校らを最大2万2000人虐殺した「カチンの森事件」を題材にし、同事件の解明に消極的なロシア政府の反発は必至だ。高齢のワイダ監督が「最後の作品の1つ」と位置づける意欲作が第二次大戦の史実の再検証を迫る可能性がある。
「カチン」は劇映画の形式で、第二次大戦でポーランド将校だった夫の帰りを待ち続ける妻の一生を描く。ソ連による虐殺で夫が命を失ったことを知らされず、自ら調査しようとしても事件にフタをするポーランドの共産主義政権に阻まれる。ワイダ監督は記者会見で「カチンを取り巻くウソを多くの人に知ってもらいたい」と語った。
「カチンの森事件」は戦争犯罪を認めないロシアがポーランド側の調査要請を打ち切り、解明が進んでいない。
☆「カチンの森事件」に関してはご存じない方も多いと思うが、最近では映画「エニグマ」で取り上げられている。 柴犬が知ったのはもう20年以上前になるが、旧ソ連はこれを全てナチスドイツのせいとして知らぬ存ぜぬを通していたが・・・。
いつも通り『ウィキペディア(Wikipedia)』からの引用である。
◇カティンの森事件(ポーランド語:Zbrodnia katyńska、ロシア語:Катынский расстрел、日本語ではカチンの森事件とも表記される)は、ソ連国内のスモレンスクにほど近いグニェズドヴォ (Gnezdovo) 村近くの森で25,000人のポーランド人がソ連のNKVD(ソ連の内務省、秘密警察)によって裁判無しに銃殺された事件。
「カティン事件」または「カチン事件」ともいう。
カティン(カティニ / Katyń)は、この事件があった場所の近くの地名で、事件とは直接関係ないが、覚えやすい名前であったため対外宣伝用に当時のドイツがこの名前をつけた。
目次 1 事件の発端
2 冷戦期の調査
3 冷戦後の調査
4 関連項目
[ 事件の発端
1939年9月、ナチス・ドイツとソ連の両方に侵攻されたポーランドは敗北し、多くのポーランド人が戦争捕虜になっていた。1943年、ドイツ国防軍はカティン近くの森で溝を発見し、4,000人以上のポーランド軍将校・警察官・公務員・元地主等の遺体が埋められているのを掘り起こし、ソ連が彼らを裁判無しで虐殺したとして非難した。連合国側は暗号解読の拠点であったブレッチェリー・パークで枢軸国の無線通信を傍受し解読していたため、ナチスが大きな墓の穴とそこで発見したものについて気づいていた。ソ連及び赤軍はドイツの主張に反論し、1941年に侵略してきたドイツ軍によって戦争捕虜のポーランド人たちは捕らえられ、殺害されたと主張した。
1944年、ソ連はカティンの森を再調査し、死体を再び掘り起こした。同年、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトはカティンの森事件の情報を収集するためにジョージ・アール大尉を密使としてバルカン半島に送り出した。アールは枢軸国側のブルガリアとルーマニアに接触して、ソビエト連邦の仕業であると考えるようになった。F・D・ルーズベルトはこの結論を拒絶した。彼はナチスの仕業だと確信していたと言われている。アールの報告は彼の命令によって隠された。アールは自分の調査を公表する許可を公式に求めたが、フランクリン・ルーズベルトはそれを禁止する文書を彼に送りつけた。アールは任務からはずされ、戦争の残りの期間をサモアで過ごすこととなった。
冷戦期の調査
第二次世界大戦後、ポーランド共産党の幹部たちはこの事件についてソビエト連邦のプロパガンダに同調するだけで真相を究明しようとはしなかった。1989年にポーランドの共産主義政権が崩壊するまで真実は公にされることはなかった。
1946年、ニュルンベルク裁判においてソ連の検察官はカティンの森での虐殺についてドイツを告発した。彼は「もっとも重要な戦争犯罪の内の一つがドイツのファシストによるポーランド人捕虜の大量殺害である。」と述べている。ドイツの弁護人は決まり悪そうな弁護を述べたが、アメリカとイギリスがこの告発を支持しなかったので、この問題は扱われなかった。カティンの森事件についてはニュルンベルク裁判では一言も述べられていない。
この事件の責任が誰にあるのかについては西側でも東側においても議論が続けられた。1952年に米国議会では、カティンの森事件がソ連内務省によって1939年に計画され、赤軍によって殺害が実行されたと認定された。また、1970年代後半のイギリスでは、事件の1940年の日付で犠牲者のための記念碑をつくる計画があったが、冷戦下の政治情勢を刺激するとして非難された。
冷戦後の調査
1989年、ソビエト連邦の学者たちはヨシフ・スターリンが虐殺を命令し、当時の内務人民委員部長官、ラヴレンチー・ベリヤ等が命令書に署名したことを明らかにした。 1990年、ミハイル・ゴルバチョフはカティンと同じような埋葬のあとが見つかったメドノエ (Mednoe) とピャチハキ (Pyatikhatki) を含めてソ連の内務人民委員部 (NKVD) がポーランド人を殺害したことを認めた。
1992年、ソビエト連邦崩壊後のロシア政府は最高機密文書の第一号から公開した。その中には西ウクライナ、ベラルーシの本当の囚人や各野営地にいるポーランド人25,700人を射殺するというスターリン及びベリヤ等、ソ連中枢部の署名入りの計画書やソ連の政治局が出した1940年3月5日の射殺命令や21,857人のポーランド人の殺害が実行され、彼らの個人資料を廃棄する計画があることなどが書かれたニキータ・フルシチョフあての文書も含まれている。
☆典型的な「勝者による敗者の裁き」が見て取れますね。 まあ、戦勝国の正義なんてこんなもんですよ。 「正義は必ず勝つ」では無くて、「勝ったから正義」だってことを良く認識して欲しいですね。
特に一神教徒とそのアンチテーゼである共産主義者はどんな手段を用いても勝てば良いと思っている事はよくよく知っておかないといけませんね〜。
この件では、当時の指導者。 ルーズベルトやスターリンの実態の一面が良くわかると思います。 ハイ。
【ウィーン=桜庭薫】映画監督アンジェイ・ワイダ氏はワルシャワで12日、メディア向け上映会で最新作「カチン」を発表した。第二次大戦時ソ連がポーランド将校らを最大2万2000人虐殺した「カチンの森事件」を題材にし、同事件の解明に消極的なロシア政府の反発は必至だ。高齢のワイダ監督が「最後の作品の1つ」と位置づける意欲作が第二次大戦の史実の再検証を迫る可能性がある。
「カチン」は劇映画の形式で、第二次大戦でポーランド将校だった夫の帰りを待ち続ける妻の一生を描く。ソ連による虐殺で夫が命を失ったことを知らされず、自ら調査しようとしても事件にフタをするポーランドの共産主義政権に阻まれる。ワイダ監督は記者会見で「カチンを取り巻くウソを多くの人に知ってもらいたい」と語った。
「カチンの森事件」は戦争犯罪を認めないロシアがポーランド側の調査要請を打ち切り、解明が進んでいない。
☆「カチンの森事件」に関してはご存じない方も多いと思うが、最近では映画「エニグマ」で取り上げられている。 柴犬が知ったのはもう20年以上前になるが、旧ソ連はこれを全てナチスドイツのせいとして知らぬ存ぜぬを通していたが・・・。
いつも通り『ウィキペディア(Wikipedia)』からの引用である。
◇カティンの森事件(ポーランド語:Zbrodnia katyńska、ロシア語:Катынский расстрел、日本語ではカチンの森事件とも表記される)は、ソ連国内のスモレンスクにほど近いグニェズドヴォ (Gnezdovo) 村近くの森で25,000人のポーランド人がソ連のNKVD(ソ連の内務省、秘密警察)によって裁判無しに銃殺された事件。
「カティン事件」または「カチン事件」ともいう。
カティン(カティニ / Katyń)は、この事件があった場所の近くの地名で、事件とは直接関係ないが、覚えやすい名前であったため対外宣伝用に当時のドイツがこの名前をつけた。
目次 1 事件の発端
2 冷戦期の調査
3 冷戦後の調査
4 関連項目
[ 事件の発端
1939年9月、ナチス・ドイツとソ連の両方に侵攻されたポーランドは敗北し、多くのポーランド人が戦争捕虜になっていた。1943年、ドイツ国防軍はカティン近くの森で溝を発見し、4,000人以上のポーランド軍将校・警察官・公務員・元地主等の遺体が埋められているのを掘り起こし、ソ連が彼らを裁判無しで虐殺したとして非難した。連合国側は暗号解読の拠点であったブレッチェリー・パークで枢軸国の無線通信を傍受し解読していたため、ナチスが大きな墓の穴とそこで発見したものについて気づいていた。ソ連及び赤軍はドイツの主張に反論し、1941年に侵略してきたドイツ軍によって戦争捕虜のポーランド人たちは捕らえられ、殺害されたと主張した。
1944年、ソ連はカティンの森を再調査し、死体を再び掘り起こした。同年、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトはカティンの森事件の情報を収集するためにジョージ・アール大尉を密使としてバルカン半島に送り出した。アールは枢軸国側のブルガリアとルーマニアに接触して、ソビエト連邦の仕業であると考えるようになった。F・D・ルーズベルトはこの結論を拒絶した。彼はナチスの仕業だと確信していたと言われている。アールの報告は彼の命令によって隠された。アールは自分の調査を公表する許可を公式に求めたが、フランクリン・ルーズベルトはそれを禁止する文書を彼に送りつけた。アールは任務からはずされ、戦争の残りの期間をサモアで過ごすこととなった。
冷戦期の調査
第二次世界大戦後、ポーランド共産党の幹部たちはこの事件についてソビエト連邦のプロパガンダに同調するだけで真相を究明しようとはしなかった。1989年にポーランドの共産主義政権が崩壊するまで真実は公にされることはなかった。
1946年、ニュルンベルク裁判においてソ連の検察官はカティンの森での虐殺についてドイツを告発した。彼は「もっとも重要な戦争犯罪の内の一つがドイツのファシストによるポーランド人捕虜の大量殺害である。」と述べている。ドイツの弁護人は決まり悪そうな弁護を述べたが、アメリカとイギリスがこの告発を支持しなかったので、この問題は扱われなかった。カティンの森事件についてはニュルンベルク裁判では一言も述べられていない。
この事件の責任が誰にあるのかについては西側でも東側においても議論が続けられた。1952年に米国議会では、カティンの森事件がソ連内務省によって1939年に計画され、赤軍によって殺害が実行されたと認定された。また、1970年代後半のイギリスでは、事件の1940年の日付で犠牲者のための記念碑をつくる計画があったが、冷戦下の政治情勢を刺激するとして非難された。
冷戦後の調査
1989年、ソビエト連邦の学者たちはヨシフ・スターリンが虐殺を命令し、当時の内務人民委員部長官、ラヴレンチー・ベリヤ等が命令書に署名したことを明らかにした。 1990年、ミハイル・ゴルバチョフはカティンと同じような埋葬のあとが見つかったメドノエ (Mednoe) とピャチハキ (Pyatikhatki) を含めてソ連の内務人民委員部 (NKVD) がポーランド人を殺害したことを認めた。
1992年、ソビエト連邦崩壊後のロシア政府は最高機密文書の第一号から公開した。その中には西ウクライナ、ベラルーシの本当の囚人や各野営地にいるポーランド人25,700人を射殺するというスターリン及びベリヤ等、ソ連中枢部の署名入りの計画書やソ連の政治局が出した1940年3月5日の射殺命令や21,857人のポーランド人の殺害が実行され、彼らの個人資料を廃棄する計画があることなどが書かれたニキータ・フルシチョフあての文書も含まれている。
☆典型的な「勝者による敗者の裁き」が見て取れますね。 まあ、戦勝国の正義なんてこんなもんですよ。 「正義は必ず勝つ」では無くて、「勝ったから正義」だってことを良く認識して欲しいですね。
特に一神教徒とそのアンチテーゼである共産主義者はどんな手段を用いても勝てば良いと思っている事はよくよく知っておかないといけませんね〜。
この件では、当時の指導者。 ルーズベルトやスターリンの実態の一面が良くわかると思います。 ハイ。


