2007年06月10日(日) 18:38
今日は腹黒翁宅にキゴウ君とおよばれしてきました。
そこで、「ハーグ密使事件」の話を出したのでしたが・・・。
誰も知らなかった・・・。
日韓併合に関する重要な事件なのでUpしたいと思います。
朝鮮日報の6月6日の記事から。
今年は「ハーグ密使事件」が起きてからちょうど100年になる。
これを受け、日本の外務省が発行する外交専門誌『外交フォーラム』は、6月号と7 月号にハーグ密使事件100周年特集論文を掲載した。当時の外務省の電文など、新たに発掘した未公開資料を基に上智大の村瀬信也教授が執筆したこの論文では、第2次日韓協約の締結により孤立無援の立場に置かれていた大韓帝国最後の外交努力を新たな角度から追跡、再検討している。
ハーグで第2回万国平和会議が開かれたのは、1907年6月15日のこと。それから10日後の6月25日に高宗(コジョン)皇帝の密命を受けた3人の使節がハーグに姿を現した。この3人とは、前議政府参賛のイ・サンソル、前平理院(最高裁)予審判事のイ・ジュン、前駐ロシア公使館書記官のイ・ウィジョン。彼らは皇帝の玉璽(ぎょくじ)が押された全権委任状を示し、会議への参加を要求した。しかし、その試みは最初から成功する見通しのないものだった。
米国は日露戦争で日本の勝利が決定すると、直ちに桂・タフト協定(1905年7月29日)を結び日本の韓国支配を承認し、英国(05年8月12日)、フランス(07年6月10日)が後に続いた。時はまさに帝国主義の時代だった。
そのため、使節らはロシアに最後の期待をかけた。ハーグに行く途中、ロシア皇帝ニコライ2世に高宗の親書を伝達し、支援を要請した。しかし、既に日本との協商方針を打ち出していたロシア外相は、むしろ「韓国の非常識を叱咤(しった)した」という。
希望と絶望、悲観と楽観が交差する中、ハーグに到着した使節らは、宿泊先のホテルの前に太極旗を掲げ、決死の覚悟で活動を繰り広げた。まず、会議の議長であるロシア代表ネリドフ伯爵に面談を要請した。だが、ネリドフ伯爵は「介入する立場にない」とし、面会すら拒否した。さらに英国、フランス、ドイツ、そして中国(清)の代表らを個別に訪問し協力を要請したが、すべて門前払いされた。
このときからイ・ウィジョンの場外外交が始まった。当時、彼は弱冠20歳だった。だが、外交官の父(李範晋〈イ・ボムジン〉駐ロシア公使)に従い、7歳のころから欧米各国で生活してきた彼は、フランス語など7カ国語に精通していた。そして、イ・ウィジョンはその流暢な外国語を駆使し、日本の非道を1つ1つ告発した。
「これがあなた方キリスト教国家の正義なのか」「あなた方の万国平和はかかしに過ぎない」
会談の消息を伝える「万国平和会議報」は、こうしたイ・ウィジョンの一挙一動を大きく取り上げた。会談場の中には入れなかったものの、彼は欧米のマスコミが最も注目する人物となった。プレスセンターから招かれ、「韓国の訴え」と題する演説も行った。現地の日本代表は本国の外務省に「満員の聴衆の前で、フランス語で1時間にわたり雄弁調で激しく日本を攻撃する演説を行った」と報告した。この演説に聴衆は深く感動し、演説が終わると何人かが立ち上がり支持を表明、「韓国を助けよう」との決議が満場一致で採択された。
そのとき、現地で「密使」らと対話を交した唯一の日本人が、後に毎日新聞社会長となる高石真五郎記者だった。彼は日本政府の立場を擁護しつつも、以下のような人物評を記事に残していた。
「彼ら3人は真の愛国の志士と言わざるを得ない。窮乏しているように見えたが、風采や言語、挙動を見ると、国の衰亡を憂え、自ら進んで任務を引き受けたようだ」
このハ一グ密使事件から3年後、韓国は日本に完全に吸収された。その亡国の過程で、この3人の烈士の行動がなかったならば、韓国の歴史はどれほどわびしいものになっていただろうかと考えてみた。6月は国を思う護国報勲の月だ。
☆正直言って、世界から相手にされなかったと言うことなのですよ。
なんと言っても当時の国際法上なんの問題もなかったのだから当たり前です。
当時の韓国はどこかの国の加護に入るしか、国家生存の道は残されて無く。 中国・ロシア・日本の内から日本を選んだと言うことです。
現在の韓国も安全保障上は米国・中国・ロシアのどこかの加護に入らないといけないはずなのですが・・・。 盧武鉉のおかげでどこからも孤立しそうです。
もっと歴史に学ぶべきだとおもうが?
そこで、「ハーグ密使事件」の話を出したのでしたが・・・。
誰も知らなかった・・・。
日韓併合に関する重要な事件なのでUpしたいと思います。
朝鮮日報の6月6日の記事から。
今年は「ハーグ密使事件」が起きてからちょうど100年になる。
これを受け、日本の外務省が発行する外交専門誌『外交フォーラム』は、6月号と7 月号にハーグ密使事件100周年特集論文を掲載した。当時の外務省の電文など、新たに発掘した未公開資料を基に上智大の村瀬信也教授が執筆したこの論文では、第2次日韓協約の締結により孤立無援の立場に置かれていた大韓帝国最後の外交努力を新たな角度から追跡、再検討している。
ハーグで第2回万国平和会議が開かれたのは、1907年6月15日のこと。それから10日後の6月25日に高宗(コジョン)皇帝の密命を受けた3人の使節がハーグに姿を現した。この3人とは、前議政府参賛のイ・サンソル、前平理院(最高裁)予審判事のイ・ジュン、前駐ロシア公使館書記官のイ・ウィジョン。彼らは皇帝の玉璽(ぎょくじ)が押された全権委任状を示し、会議への参加を要求した。しかし、その試みは最初から成功する見通しのないものだった。
米国は日露戦争で日本の勝利が決定すると、直ちに桂・タフト協定(1905年7月29日)を結び日本の韓国支配を承認し、英国(05年8月12日)、フランス(07年6月10日)が後に続いた。時はまさに帝国主義の時代だった。
そのため、使節らはロシアに最後の期待をかけた。ハーグに行く途中、ロシア皇帝ニコライ2世に高宗の親書を伝達し、支援を要請した。しかし、既に日本との協商方針を打ち出していたロシア外相は、むしろ「韓国の非常識を叱咤(しった)した」という。
希望と絶望、悲観と楽観が交差する中、ハーグに到着した使節らは、宿泊先のホテルの前に太極旗を掲げ、決死の覚悟で活動を繰り広げた。まず、会議の議長であるロシア代表ネリドフ伯爵に面談を要請した。だが、ネリドフ伯爵は「介入する立場にない」とし、面会すら拒否した。さらに英国、フランス、ドイツ、そして中国(清)の代表らを個別に訪問し協力を要請したが、すべて門前払いされた。
このときからイ・ウィジョンの場外外交が始まった。当時、彼は弱冠20歳だった。だが、外交官の父(李範晋〈イ・ボムジン〉駐ロシア公使)に従い、7歳のころから欧米各国で生活してきた彼は、フランス語など7カ国語に精通していた。そして、イ・ウィジョンはその流暢な外国語を駆使し、日本の非道を1つ1つ告発した。
「これがあなた方キリスト教国家の正義なのか」「あなた方の万国平和はかかしに過ぎない」
会談の消息を伝える「万国平和会議報」は、こうしたイ・ウィジョンの一挙一動を大きく取り上げた。会談場の中には入れなかったものの、彼は欧米のマスコミが最も注目する人物となった。プレスセンターから招かれ、「韓国の訴え」と題する演説も行った。現地の日本代表は本国の外務省に「満員の聴衆の前で、フランス語で1時間にわたり雄弁調で激しく日本を攻撃する演説を行った」と報告した。この演説に聴衆は深く感動し、演説が終わると何人かが立ち上がり支持を表明、「韓国を助けよう」との決議が満場一致で採択された。
そのとき、現地で「密使」らと対話を交した唯一の日本人が、後に毎日新聞社会長となる高石真五郎記者だった。彼は日本政府の立場を擁護しつつも、以下のような人物評を記事に残していた。
「彼ら3人は真の愛国の志士と言わざるを得ない。窮乏しているように見えたが、風采や言語、挙動を見ると、国の衰亡を憂え、自ら進んで任務を引き受けたようだ」
このハ一グ密使事件から3年後、韓国は日本に完全に吸収された。その亡国の過程で、この3人の烈士の行動がなかったならば、韓国の歴史はどれほどわびしいものになっていただろうかと考えてみた。6月は国を思う護国報勲の月だ。
☆正直言って、世界から相手にされなかったと言うことなのですよ。
なんと言っても当時の国際法上なんの問題もなかったのだから当たり前です。
当時の韓国はどこかの国の加護に入るしか、国家生存の道は残されて無く。 中国・ロシア・日本の内から日本を選んだと言うことです。
現在の韓国も安全保障上は米国・中国・ロシアのどこかの加護に入らないといけないはずなのですが・・・。 盧武鉉のおかげでどこからも孤立しそうです。
もっと歴史に学ぶべきだとおもうが?


